旅へ行ってみて初めて分かる様々なこと〜とても近い京都と大阪の距離・初期の旅の体験・現在の大阪城と城のイメージ・大坂から大阪へ・様々な都市のもつ歴史と旅の深み〜|東京の建築設計

前回は「アイデア:都市広場 〜熊本の家・住宅の広場・子どもたちが楽しい空間・子どもたちが身近に感じるテラス・広場と道空間の積層〜」の話でした。

目次

初期の旅の体験:とても近い京都と大阪の距離

新建築紀行
左上からバーゼル、ニューヨーク、サントリーニ、ロンドン(新建築紀行)

国内・海外、いずれも旅が好きな方は数多くいらっしゃいます。

大学で建築学科を専攻して以来、国内外の数多くの建築や都市・街を訪問しました。

それらの一つ一つの旅が大きな感激を呼び、歴史ある建築でも現代建築でも名建築と呼ばれる建築を訪問して、

ここが、
こうなって光が入ってきているんだ・・・

など現地に平面図などの資料を持参して、いろいろ見るのが実に楽しいです。

楽しいだけではなく、大いなる学びとなるところが、「旅の大いなる意義」となります。

数多くの建築を訪問して、実務を重ねると、図面と写真を見ればほぼ全容がつかめますが、

学生時代は、多くの建築を訪問して
「実際に見てみること」が一番大きな学びになります。

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大阪城(新建築紀行)

一番最初に「自分達の旅」で向かった先は北海道で、その次に京都と大阪でした。

高校一年生の時に、同級生の仲間と一緒に5名で京都から大阪までぐるっと回りました。

東京に住んでいる視点から、京都・大阪に行ってみると、この二つの大都市のあまりの近さに驚きました。

在来線でも、京都と大阪は「目と鼻の先」と言っても良いほどの近さです。

現代でも、東京都に次ぐ立場として、大阪・京都とこの二つの自治体のみ「」という特別な位置にいます。

この京都と大阪という「非常に近くて、性格が異なる二大都市」によって、関西の歴史が紡がれてきたと言えます。

地図で改めて見れば、「京都と大阪は近い」のは分かりますが、こういう「近さ」は実体験することが大事だと思います。

実際に在来線で、大阪と京都を行ったり来たり
すると、東京と横浜より近く感じます。

旅へ行ってみて初めて分かる様々なこと:現在の大阪城と城のイメージ

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かつての日本の中心:京・山城(新建築紀行)

古来から、京・山城が中心であり続けた日本という国家の姿。

室町時代後期から戦後時代にかけて、大阪付近の堺が貿易港として大いに賑わい、大阪の地が注目されました。

歴史が大好きな僕は、大阪城を訪問することを心待ちにして、到着した際は、

「いよいよ、あの大阪城だ!」と
気分が高揚したのを覚えています。

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大阪城(新建築紀行)

現代も豪華絢爛な感じの大阪城ですが、鉄筋コンクリート造の再建です。

豊臣秀吉が築城した大阪城は「大坂の陣」の時に消失したのを知っていましたが、

内部にエレベーターがあるのが、
歴史好きの視点から考えると、少し残念に感じました。

現代、建築設計の立場から考えると「バリアフリーの観点」からエレベーターは必要です。

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彦根城(新建築紀行)

「現存12店天守」の彦根城のような城をイメージしていた、高校一年の僕。

現存12天守

・姫路城(兵庫県姫路市)

・彦根城(滋賀県彦根市)

・犬山城(愛知県犬山市)

・松江城(島根県松江市)

・松本城(長野県松本市)

・丸亀城(香川県丸亀市)

・丸岡城(福井県坂井市)

・宇和島城(愛媛県宇和島市)

・備中松山城(岡山県高梁市)

・高知城(高知県高知市)

・弘前城(青森県弘前市)

・松山城(愛媛県松山市)

この「木造の大建築」をイメージしていましたが、内部は「そっけない感じ」だったのを少し残念に思いました。

この「行ってみたら少し残念だった」という経験も、旅ならではの醍醐味だと思います。

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大阪城(新建築紀行)

旅へ行って、実際に様々な建築や都市・街を訪問してきて、ほとんどの場合は感動した経験があります。

この大阪城のように「思っていたのと全然違った」経験もありますが、

そうした様々な体験が詰まっているのが
「旅の醍醐味」です。

「ネットや書籍で分かること」も沢山ありますが、やはり現地に行って色々と見て、感じることとは全く異なります。

この意味でも、高校一年の時の「がっかりした経験」もまた、旅の面白さの一つです。

大坂から大阪へ:様々な都市のもつ歴史と旅の深み

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光の教会(設計:安藤忠雄建築研究所)(新建築紀行)

京都・奈良などには古建築が沢山あり、大阪・兵庫などには数多くの現代建築があります。

そのため、大学生の時も何度も関西、特に大阪と京都を訪問しました。

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太閤 豊臣秀吉(Wikipedia)

戦国時代に商業の中心地の一つとなりつつあった大坂が、江戸期に「天下の台所」となったのは、秀吉が、

私の世となる
シンボルとなる巨大で豪華絢爛たる城・・・

それを大坂の地に
建てるのだ!

と考えて、天下統一が見えてきた頃から、

大坂が豊臣家の
拠点であり、日本の中心!

と考えたことが大きな理由です。

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豊臣期大坂図屏風(Wikipedia)

この豊臣時代の大坂の賑やかさは大変なもので、まさに「日本最大の都市」であり、世界有数の大都市でした。

この頃、大は大と表記していました。

「さか」の字が異なっている「大坂」が明治時代初頭まで使われていました。

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左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

明治維新によって新政府が誕生した時、実力者であった大久保利通は、

京都から遷都して、
大坂へ!

と一時は考えるほど、大坂の地は重要でした。

結局、「江戸時代の政治機構がある」江戸を「東京=都」と名前を変えて、新たな首都となりました。(首都奠都)

江戸は東京となり、
新たな首都だな!

と思ったものの、新政府には問題山積みでした。

「諸外国との外交」が大きな課題であり、内政面は「武士の扱いをどうするか」でした。

おい!一体誰が
「徳川打倒の戦い」を戦い抜いたと思っている!

そうだ!
俺たち武士が徳川の世を叩き潰したのだ!

こういう声が充満する中、大久保は、

大坂の坂の字の編は、
武士の士だ・・・

当時の「大坂」の「」の字の部首が「武士の士」であることを懸念して、

地名を大坂から
変更しよう!

と大久保たち政府首脳陣が考えた結果、「大坂から大阪へ」地名変更となりました。

明治維新の際には、廃藩置県などで「地名が変わった」ケースが沢山ありました。

それでもなお「おおさか」という音が「全く変わらなかった」のは、大坂が持っていたパワーならではです。

この「大坂から大阪へ」は、僕が大学生になってから知りました。

日本の精神の中心である京都に寄り添うように、商業の大発展を続け、今もなお日本第二の都市である大阪。

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延暦寺:大講堂(新建築紀行)

延暦寺などとはまた違う視点で「深い意味と歴史」を持っているのが、大阪という都市です。

こうしたことを旅の前でも後でも知ると、旅の経験や記憶に深みが出ると思います。

「実際に訪れるリアルな体験」と「その建築・都市・街・村などの歴史」を思い起こす時、

旅の経験に大いなる深みが
生まれて、その意義が大きくなります。

大人になっても、色々な地に行くのはとても楽しいです。

日本国内でも「訪問していない名所・都市・街」は数多くあり、これからも訪問を続けたいと思います。

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