前回は「戦国から幕末維新までドラマたくさんの彦根城〜現存12天守・「武の井伊」を体現した石垣・赤備えの軍勢率いた井伊直政〜」の話でした。
京と大坂に睨みを効かせた巨城・彦根城:徳川幕府の中核・井伊家
滋賀県の琵琶湖のほとりにある彦根城を訪問しました。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
「現存12天守」という「昔の天守閣がそのまま残っている12の城」の一つである彦根城。
関ヶ原の合戦によって、事実上「戦国時代を制した」徳川家康は、
我が徳川家の中核は、
江戸だ!
現代の東京である江戸は、当時は「小さな街」程度の規模でした。
そして、まだ豊臣家が残っており、日本の中心は京と大坂(当時は大阪は「大阪と表記」)でした。
現在、「東京一極集中」と表現される日本ですが、当時は「京大坂一極集中」の時代でした。
そして、関ヶ原の戦いを制したとはいえ、形式上は「豊臣家の大老・家臣」であった徳川家康。
近江(滋賀)に京と大坂に睨みを
効かせる我が家臣を配置したい・・・
「豊臣に睨みを効かせる」ためには、徳川四天王の一人が望ましいです。
この頃から、徳川家においては政治家・官僚・文官が台頭し始めていましたが、
我が国の中心である京・大坂を
抑え、豊臣も抑えるには・・・
武力と政治力を
兼ね備える人物である井伊直政だ!
井伊直政よ!
彦根を拠点として、西に睨みを効かせよ!
ははっ!
お任せを!
こうして、広大な領地を任された井伊直政は、大規模な城である彦根城を築きました。
ところが、関ヶ原の合戦での負傷が元で、41歳の若さで井伊直政は亡くなってしまい、
ワシより18歳も年下で、
期待していたのだが・・・
家康がガッカリしたでしょう。
直政は死んでしまったが、
井伊には徳川の柱石となってもらおう!
そして、幕末の「桜田門外ノ変」で有名な井伊直弼に至るまで、井伊は「徳川の中核」であり続けました。
家名 | 人数(名) |
井伊 | 7 |
酒井 | 4 |
土井 | 1 |
堀田 | 1 |
徳川幕府の首相格(将軍は総括的立場)であった中老を超える「臨時職」であった大老。
大老就任の人数は諸説ありますが、「江戸時代通じて13人のうち、7人が井伊」でした。
約270年の間、徳川家及び徳川幕府を支え続けた井伊家を体現するのが彦根城です。
歩くと広く感じられる城内:戦国の香りを残した道空間
規模は縮小しましたが、戦国期〜江戸期の香りを残している彦根城。
大きな堀に囲まれ、堀は琵琶湖と接続しています。
規模が結構大きいですが、城内を歩くと「より広く感じられる」のが特徴です。
現代の城は、ほとんどが再建であり、城周辺は「整備された公園」であることが多いです。
上記リンクで名古屋城の話を、ご紹介しています。
「整備された公園」であることが多い城は、見通しがきく計画であることが多いです。
対して、彦根城は「戦国の香り」を残しているので「戦いを意識した空間」となっています。
「城における戦い=籠城戦」では、敵軍が城にドンドン入ってくるのを防ぐために、
道をかなり湾曲させて、
中心の天守閣まで到達しにくいようにします。
湾曲した道は、心地よい道空間でもあり、大きな木造建築を随所に見ながら、
木造建築や雄大な石垣などを
楽しみながら歩けます。
ようやく、天守閣の近くに到達しました。
ちょっと
疲れたよ・・・
この時は、小学校低学年の子どもと一緒に訪問しましたが、子どもにはちょっと長い道でした。
間近で見ると、それほど大きな規模ではありませんが、「現代の目」で見ていることが大きな理由です。
この彦根城の本丸は、おそらく関ヶ原の合戦後まもなく建てられたと思われます。
つまり、1600年代初期に建てられたのが、この本丸です。
400年以上前に建てられた、木造の建築であることを考えると、かなりの規模です。
集成材もなかった当時は、純粋な木造で建築したので、施工を担当した大工たちは大変な苦労をしたと思われます。
いよいよ、天守閣の間近にきて、雄大な歴史を持つ彦根城の天守へと向かいます。
次回は、彦根城の天守閣内に入ってゆきます。