水の都・清洲の卓越した経済力〜川と繋がる都市の潜在力・河川を中心とした都市だった清洲・戦国期まで尾張国中心の清洲城〜|清洲城2・建築設計と旅と歴史

前回は「かつては愛知県(尾張)の中心地だった清洲城〜織田信長の最初の本拠地・かつては那古野と記載した名古屋・再開発が盛んな名古屋駅周辺〜」の話でした。

目次

河川を中心とした都市だった清洲:戦国期まで尾張国中心の清洲城

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清州城(新建築未来紀行)

名古屋の中心部から近い清洲にある、清洲城を訪問しました。

日本が高度成長期からバブル景気となった1980年代、様々な城が復元されました。

清洲城は、1989年の平成元年に鉄筋コンクリート造で復元されました。

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清州城(新建築未来紀行)

復元された清洲城は、天守閣周辺のみが整備されています。

清洲城天守閣前は、庭園が美しく整備されており、周囲に高層ビルなどがないので綺麗です。

現在の清洲市は名古屋市と比較すると、知名度は低いですが、織田信長の頃は清洲が中心地でした。

Yoshitaka Uchino

幕末まで愛知県は
尾張と呼ばれていました。

Yoshitaka Uchino

江戸時代になってから、
名古屋城が拡張されて、名古屋が中心地となりました。

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清州城(新建築未来紀行)

織田信長の父・織田信秀の時代は、清洲城周囲に小さな街が作られていました。

そして、現在の岐阜県である美濃から流れる川が中央にあり、まさに「河川を中心とした都市」だったのが清洲です。

水の都・清洲の卓越した経済力:川と繋がる都市の潜在力

新建築紀行
戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、1534年生まれの「戦国の覇王」織田信長が尾張を統一し、清洲はさらに活気付きました。

織田信長

この織田信長が、
尾張を統一し・・・

織田信長

戦国の戦乱に
打って出るのだ!

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1542年
戦国大名の生年

著名な戦国武将の中で、比較的「若手」だった織田信長。

守護の家柄だった今川義元、武田信玄などと比較すると、織田信長の家格はだいぶ落ちますが、

織田信長

守護であろうが、
守護代であろうが関係ない!

織田信長

この戦乱の時代は
力こそが全てだ!

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清州城(新建築未来紀行)

そして、尾張を統一した織田信長は、みるみり勢力を拡張しました。

この「織田家の興隆」の理由は、信長や家臣団の卓越した能力、圧倒的政治力と軍事力など多々あります。

織田信長

我が織田家の鉄砲など
最新兵器を揃えた力の根源は・・・

織田信長

我が織田家の経済力が高く、
高い現金収入があったからだ!

織田家は、他の戦国大名とは隔絶した経済力を持っていたことが大きな特徴です。

そして、織田家勃興期に織田の経済力を大きくになっていたのが清洲の都市でした。

清洲城内で展示されている「清洲城及び清洲の街」の復元模型を見ると、よく分かります。

清洲の街が、川と共生した都市であったことが。

日本の街や都市は、長らく河川と共生する街でした。

戦後の高度成長期頃に、日本の都市は「川に背を向けて、河川と断絶した都市」となりました。

清洲城を訪れて、かつての清洲の街を思い浮かべると、

Yoshitaka Uchino

未来の都市デザインにも
役立つことが沢山ありそうです。

水運が盛んであった当時とは状況が異なりますが、河川は美しい街を作り、経済力も向上させると考えます。

21世紀を迎えて、25年経過しました。

「スクラップ&ビルドからの脱却」は昔から言われていますが、「河川との共生」が都市再生の鍵と考えます。

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