前回は「九州付近の魅力的な島々と種子島〜木造建築と日本刀の技術が高かった戦国期の日本・木造建築の合理的技術と鉄砲製造・継手仕口と金物〜」の話でした。
日本古来の木造建築技術と鉄砲の国産化
種子島を訪問して最初に向かったのが、鉄砲館でした。
もともとは当時のポルトガルから伝来した鉄砲は、すぐに国産化されることになりました。
鉄砲伝来した1543年(1542年説もあり)は、日本の戦国時代が本格化した頃でした。
「鉄砲と言ったら信長」の織田信長は1534年生まれで、この時10歳(数え年)でした。
日本古来の木造建築が大型化して、一部の国では大きな城郭建築が作られようとしていた頃です。
当時は欧州の方が遥かに文明が進んでいましたが、日本古来の技術は精緻さにおいて、優れていました。
「美しい日本刀」が大量に生産されるのは後の時代ですが、実用的な刀や槍が大量生産されていました。
そして、早々に「海外伝来の最先端技術」であった鉄砲製造を国産化できた日本。
鉄砲の生産技術は、
日本の伝統的な建築技術とも関係ありそうです。
「何かを作る」という意味において、日本の木造建築の技術もまた、鉄砲製造に一役買ったのでしょう。
そんなことを考えながら、鉄砲館を後にして「鉄砲伝来の地」門倉崎へ向かいました。
雄大な海が広がる「鉄砲伝来の地」門倉崎
鉄砲館から南に向かう途中、種子島の宇宙センターが見えました。
宇宙センターは後でゆくことにして、先に門倉崎へ向かいます。
海で囲まれている種子島は、当然のことですが、どこからみても海が広がる雄大な景色です。
南北に細長い種子島は、南部に向かうのに車で1時間半ほどかかりました。
そして、ついに「鉄砲伝来の地」である門倉崎に到着しました。
この日は天気が良かったこともあり、とても青い海が広がる美しい景色です。
小学校の歴史の授業で、
ポルトガル船が
漂着して、鉄砲が伝来しました・・・
「鉄砲は種子島」と習い、「島国日本の比較的小さな島」の中で、多くの方が初めて知る種子島。
この地にポルトガル船が来て、
鉄砲伝来したんだ・・・
この「日本の歴史に大いなる影響を与えた」種子島は、この門倉崎によって新たな時代が開かれました。
「世界の最先端文明との結節点」だった種子島
見渡してみると、陸地も緑が広がり、「陸地の緑と海の青」のコントラストが美しいです。
この周辺は、海となだらかにつながる海辺から、急峻な崖まで高低差が非常に大きなエリアです。
「鉄砲伝来の地」の記念碑も建っていて、
「ここが鉄砲発祥の地です」という
感じがします。
今から480年ほど昔の1543年の頃は、現代とは「全然異なる」世界でしたが、風景は「似ていた」のでしょう。
門倉崎の先端から海を見渡すと、広い広い外洋が広がっています。
種子島は、ちょうど太平洋と東シナ海の両方が見える、歴史的に非常に重要な地です。
現代の日本において「近くて遠い島」である種子島は、古来から様々な文化の結節点だったと思われます。
この意味では、種子島は「日本の海外の窓口の一つ」だったのです。
そして、かつて中国大陸から様々な文化を受容してきた日本。
この頃の種子島は、独立国のような状況であったこともあると考えられます。
そして、古来からずっと、中国大陸からの大きな影響を受けたでしょう。
そして、日本の室町時代末期・戦国時代にポルトガル船が漂着して、鉄砲伝来となりました。
このことは、当時、「ポルトガル船などの欧州の船が頻繁に付近を航行していた」ことを示します。
すると、この種子島は、当時は「世界の最先端文明との結節点」だったと考えます。
そして、種子島の南の先端・門倉崎は、その「最先端文明との架け橋」だったのかも知れません。
こんなことを夢想しながら、美しき種子島の海を楽しみました。
ぜひ、種子島を訪れてみて下さい。
次回は上記リンクです。