岐阜の旅と建築 2〜美しき野原・美濃国と建築〜|東京の建築設計

前回は「岐阜の旅と建築 1〜織田信長の夢と岐阜城〜」の話でした。

目次

岐阜城と岐阜の美しい山々

岐阜城(新建築紀行)

現代でも遠くから眺めることができる岐阜城。

見上げて、高いところに天主閣が見えます。

信長の頃は、さぞかし壮大な感じだったでしょう。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

私の
新たな本拠地なのだ!

民衆や国衆(地域の侍たち)からすると、

あれが、
我々の領主の城だ!

と誇りに思ったでしょう。

象徴としての城という意味では、とても良いです。

後に建築する安土城もまた、岐阜城(稲葉山城)の影響があるのでしょう。

岐阜城(新建築紀行)

岐阜城の天守閣から見た風景です。

現代でも山が多い岐阜県。

その名残が残っていて、数々の美しい山々が残っています。

岐阜県は、かつては美濃国と呼ばれていました。

美しき野原

「美濃」の名前の由来は諸説ありますが、この光景を見ていて思い当たることがありました。

とても広大で
美しい野原が広がっている・・・

美しい野原から、
美野(みの)という国の名前になったのではないか・・・

こういう学説があるのかは定かではありません。

僕が、岐阜城天守閣から、現在の岐阜県に広がる美しい山々を見た感想です。

岐阜城(新建築紀行)

今は鉄筋コンクリート造の高い建物が立ち並ぶ岐阜市の街並。

信長の頃は、平屋か二階建ての木造建築が立ち並んでいました。

かつての日本の中心:京・山城(新建築紀行)

現在は東京中心の日本。

信長の頃、あるいは江戸時代までは京・山城が「日本の中心」だったと言えます。

歴代天皇がいた京・山城。

様々な武家政権が政権を握っても、京・山城は「日本の精神的中心・重心」であり続けました。

そのため、特に戦国期までの日本は、京・山城に近い国の方が人口が多く、生産力も高かったのです。

美濃・岐阜の高い生産力

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

当時、国ごとの生産力は、お米の生産力「石高」で測られていました。

その「石高」で全国5位だった美濃は、54万石(太閤検地)でした。

非常に大きな農業生産力を持っていた美濃国。

その原動力こそは、「しき原」であり「美野」だったのではないでしょうか。

そして、「農業力が極めて高かった」ため、が「業」の字を持つ「」に代わり美濃になったのではないでしょうか。

「美野」から「美濃」に
なったのではないか・・・

僕の勝手な想像ですが、「夢のある話」だと思います。

熊本の家:外観

建築をするとき、規模の大小はあれ、「建主の城」をつくる設計図を作成する私たち。

その「建主の夢」である「建主の城」をつくる思いを大事にしたいです。

新建築紀行

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