前回は「熊本の家と九州の自然 2〜木造住宅新築前のプロセス〜」の話でした。
九州の拠点・熊本城と熊本鎮台
日本の城郭建築で由緒ある美しい熊本城。
2016年の熊本地震で大きな被害を受けたのち、再度大規模な修復がなされました。
訪れたのは熊本地震の前ですが、無事修復・復旧が進んで、本当に良かったです。
姫路城と比較すると、少しこじんまりとした熊本城ですが、江戸時代から「九州の要の城」であり続けました。
明治新政府が新たに軍を編成した際には、日本全国の六鎮台の一つとなっています。
東京鎮台:第一師団
仙台鎮台:第二師団
名古屋鎮台:第三師団
大阪鎮台:第四師団
広島鎮台:第五師団
熊本鎮台:第六師団
第一〜第五師団までの鎮台の位置は、日本の歴史と地形を考えると非常にわかりやすいです。
一方で、「なぜ、九州の鎮台が熊本なのか?」は、当時様々な意見があったと思われます。
実際、九州の鎮台は「小倉鎮台」が検討された時期もあったようです。
明治維新後の新政府と建築:大工と建築家
明治維新を迎え、新しい国家となった明治新政府は「大いなる欧化」を推進しました。
西洋に
追いつくのだ!
西洋、特に欧州こそが目標でした。
オランダ・朝鮮・中国などとは公式な交易があったものの、おおむね「鎖国状態」でした。
そして、幕末から米国・英国などから条約を求められ、世界への視野が急速に開かれました。
世界への視野は、欧米の最新の科学技術・学問などの急速な輸入に繋がりました。
そして、建築もまた「西洋から直輸入」することになったのです。
古来から日本では「大工」が「建築家の役割」をしていました。
いわば、大工が設計施工で建築を作り続けてきた日本。
対して、欧州は早い時期から建築家の職能が確立していました。
西洋風の建築を
作るのだ!
幕末に米国・英国など欧州列強と不平等条約を結ばされた日本。
それら、「不平等条約の改正」もまた明治新政府の大事な目標の一つでした。
我が日本の力を
欧米に認めてもらわねば・・・
悔しいが、
日本は大きく遅れている・・・
海外から、
学問はどんどん学ばねば!
海外から専門の先生方をお招きした明治政府。
「お雇い外国人」として多額の給与を支払い、学校を設立して、
みなさん、
ぜひ日本に教えてにきてください!
明治新政府は、世界各国に依頼しました。
日本の建築家の肖像:ジョサイア・コンドルと東京大学
OK!
私が西洋の建築を教えましょう。
英国(大英帝国)からは建築家ジョサイア・コンドルを招聘しました。
明治10年である1877年に来日したジョサイア・コンドル。
この年は国内最大の内戦といえる、西南戦争が勃発しました。
明治新政府の
堕落を、おいどんが是正するごわす!
未曾有の大戦争となった西南戦争。
西郷軍、新政府軍双方共に6,800名ほどの戦死者を出す、大戦争となりました。
この中、「学校どころではない」はずですが、明治新政府は外国からの先生募集を強化しました。
東京大学工学部の前身となる工部大学校を、1873年に設立した明治新政府。
大工ではなく、
きちんとした西洋建築を設計できる・・・
日本人の建築家を
育てるのだ!
コンドルさん、
お願いします!
OK!
Japanの若い人たち・・・
私が
育てましょう!
こうして、工部大学校 造家学(建築科)教師となったコンドル。
当時は、建築学科がなく「造家学科」だったのでした。
この「家を造る」を直訳した「造家」という言葉が、当時の雰囲気を表しています。
現代、「つくる」は「作る」や「創る」などで表記しますが「造る」とは、あまり書きません。
「建築構造」の造をもって、建築学を「造家学」と表現したことに、「大工から建築家」の流れが感じられます。
私が大勢の
日本人のArchitect(建築家)を生みましょう!
そのコンドルの元から、東京駅を設計した辰野金吾ら大勢の建築家たちが羽ばたいてゆきます。