前回は「廃墟となった岡豊城跡〜鬱蒼とした森の城跡・城跡から往時の城郭建築を想像〜」の話でした。
古い築城術で築かれた岡豊城:小さな石で作られた石垣

四国を訪問した際に、岡豊城跡を訪れました。
戦国期に四国統一を果たした長宗我部氏の本拠地であった岡豊城。

その後、長宗我部氏が本拠地を移転し、岡豊城の重要性は一気に下がったと思われます。
そして、関ヶ原の合戦で敗北した長宗我部氏は領地没収となりました。
関ヶ原後、元は土佐と地縁が全くなかった山内氏が土佐に入国し、現在の高知を拠点としました。
そのため、江戸時代初期には、岡豊城は廃城となったと思われます。
廃城となって400年以上が経過した岡豊城は、現在は城の面影は、ほとんどありません。

石垣らしきものも残っていますが、石垣にしては、石が小さめです。

現在の私たちが見ることが多い城は、もっと大きな石で石垣が構成されています。
それらの城は、復元も多く、現存しているものも戦国末期〜江戸初期に整備された城が多いです。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
現存十二天守の城は、原型が戦国初期以前であっても、整備されたのは後の時代であることが多いです。
そのため、長宗我部氏の頃の岡豊城築城時期よりも、現在の城は築城技術がだいぶ進んでいます。
「古い時代」に築かれ、整備された岡豊城の石垣は、小さな石による「石垣もどき」なのかもしれません。
「つわものどもが夢のあと」の廃墟:建築物を後世に遺す意義

他にも、石垣というよりは、土留めのための石の構築物のような部分が見受けられました。
これらの石の構築物が、戦国末期の岡豊城のものであるかどうかは不明な点もあります。

戦国期において、各地で勃興した諸勢力の多くは、江戸期も生き延びましたが、長宗我部家は消えました。
消えてしまった長宗我部氏の本拠地として、一時は光り輝いていたであろう岡豊城。
まさに、「つわものどもが夢のあと」を感じさせます。

少し大きめの石垣のような構築物がありましたが、階段は現代に整備されたものです。
そのため、これらの石の構築物もまた、当時のものかどうかは不明です。
城跡(城址)というよりも森のようであり、廃墟となってしまった岡豊城。
この山に建築資材を持ち込んで、築城したのは、大変なエネルギーと時間がかかったと思われます。
そのエネルギーの「破片」が残っているように感じられました。
鉄筋コンクリートの建築物もまた、時間が経過すれば少しずつ劣化してゆきます。
そして、いまだに「スクラップアンドビルド」の文化である日本は、建物の寿命は長くはありません。
この岡豊城の廃墟を見て、建築を遺すことの意義を考えさせられました。